スノーボーダーとして活躍中の戸塚優斗選手。
戸塚優斗選手には兄弟がいなく一人っ子ということですが、
戸塚優真選手のことを調べていると検索候補に「兄」と出てきます。
今回は、戸塚優斗選手の「兄」とは誰の事なのか調べていきたいと思います。
Contents
戸塚優斗の亡き兄とは誰?

戸塚優斗選手を調べていくと検索候補で「兄」が登場します。
と出てきますが、戸塚優斗選手の家族構成は父、母、そして戸塚優斗選手の3人家族で兄弟はいません。
戸塚優斗選手の兄とは誰なのでしょうか?
プロライダーの柳原真央

戸塚優斗選手が本当の兄のように慕っていたのは、
柳原真央さんというヨネックスと契約していたライダーだった方です。
柳原真央さんの画像は、上記の方がで柳原真央さんは
戸塚優斗選手より7歳年上で、レッスンイベントで知り合ったそうです。
柳原真央さんと戸塚優斗選手は兄弟のようでもあり、師弟のような時もあるとても仲の良い友達同士でした。
戸塚優斗選手はお兄さんはいませんが、柳原真央さんのことを本当に慕っていたんですね。
当時柳原真央さんは日本でもトップクラスのスノーボード選手。
ロシア・ソチ冬季五輪への出場も夢ではなかったそうです。
また、柳原真央さんは高校で生徒会副会長をしたりテストでは学年1位になるなど文武両道を極めていたといわれていました。
しかし2011年12月に柳原真央さんは亡くなってしまいます。
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2011年の交通事故とは

2011年12月3日のこと、柳原真央さんは午前4時50分ごろ
岡山県倉敷市児島柳田町の瀬戸中央自動車道下り線で母親が運転する車に乗っていました。
しかし、雨が降っており天候が悪く、運転の乗用車がガードロープに衝突してしまいます。
同乗していた柳原真央さんは車外に投げ出され、
後続の大型トラック2台にひかれて無くなりました。
大会出場のため川崎市の自宅を出発、愛媛県に向かう途中のことだったようです。
母の博子さんが運転していた車は、
左側面をガードロープにぶつけたあと数回スピンしたそうで、
その影響で後部座席にいた柳原さんが車外に放り出されたとみられています。
高速隊が事故現場に到着したとき、柳原真央さんはすでに死亡していたと報道されていました。
岡山県警高速隊によると、事故が起きた倉敷市内の瀬戸中央自動車道下り線の現場は、
片側2車線の緩やかな右カーブで、当時小雨が降っていたという。 母の博子さんが運転していた乗用車は、左側面をガードロープにぶつけたあと数回スピンしたもようで、 後部座席にいた柳原さんが車外に放り出されたとみられている。http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111204/dst11120407020002-n1.htm
戸塚優斗さんも柳原真央さんが出場する予定だった愛媛の大会に出場していたそうで
大会後に訃報を聞いて呆然としていたそうです。
あまりにも悲しい訃報にショックを隠しきれなかったのではないでしょうか。
昨日の関東大会HP、柳原真央の為に喪章をご用意頂いた方、賛同し喪章を付けて参戦して下さった選手の皆さん。ありがとうございます!!皆さんのお気持ちは絶対に真央に届いています。この場をお借りして、心より御礼申し上げます。
— やなぎはらひろこ (@noimaohiroko) February 16, 2012
柳原真央さんの母親の博子さんは
柳原真央さんの死後、大会で喪章をつけて参戦した選手へ御礼のツイートをされていました。
多くの人に愛されていた選手だったんですね。
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戸塚優斗の亡き兄とのエピソードは?
戸塚優斗さんと亡き兄の柳原真央さんのエピソードについてですが
こちらは3つほどありました。
- 師弟関係で技術を盗みあう仲
- スノボだけではなく礼儀や挨拶を教えてくれていた
- 名前のステッカーが泣ける!
その1:師弟関係で技術を盗みあう仲

戸塚優斗さんは柳原真央さんの技術を小さい頃から盗みながら上達していたそうです。
「基本的にはスノーボードの先輩後輩なので、元々はうまいお兄さんという感じ。真央の滑りを見ながら、優斗もここがカッコいいとか盗んでいたんじゃないかな」https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/02/06/kiji/20180205s00077000445000c.html
また柳原真央さんも小さいながら才能を発揮する戸塚優斗さんの
技を盗みながら上達していたといわれていました。
師弟関係だったけど切磋琢磨する仲だったのでしょうね。
その2:スノボだけではなく礼儀や挨拶を教えてくれていた

戸塚優斗さんは柳原真央さんにスノボの技術だけでなく
礼儀や生活面も教えられたそうです。
2018年のインタビューで戸塚優斗さんは
- 滑り、技、生活面、礼儀などを習いました
- あいさつが小さいってずっと怒られていた
- 感謝もあるしそういう気持ちをずっと忘れずにやっていきたい
と語っています。
当時戸塚優斗さんは10歳。
柳原真央さんは17歳でした。
7歳年上の柳原真央さんは頼もしかったでしょうし、憧れの存在でもあったのでしょうね。
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その3:名前のステッカーが泣ける!
戸塚優斗さんはボードに柳原真央さんのステッカーを貼って滑っているようです。

NEXT SKY MAO
と書かれたステッカーをボードに貼って平昌五輪に出場していたことがわかりました。
もし真央くんが生きていたら一緒に五輪に出られたかもしれないね
と平昌五輪前に呟いていた戸塚優斗さん。
ステッカーを貼って柳原真央さんのことを想いながら滑っているのでしょうね。
